医療安全

Patient Safety

 1990年代後半,各国で医療への信頼を揺るがす医療事故がたて続けに報じられ,医療安全が深刻な課題として認識され始めた。1999年に発表された米国医学会(IOM)の報告書「To Err is Human(邦題:人は誰でも間違える)」は,「安全」を「事故による傷害のない状況」と定義し,「医療の質における不可欠な要素であり,質における第一の重要領域」と位置づけ,防ぐことができる有害事象で多くの患者が死亡していることを示すとともにその方策を提言し,世界の医療安全の起爆剤ともいうべき役割を果たした。方策として示された,(1)医療安全に関する知識の開発と普及をしていくためのナショナルセンターの設置,(2)エラーの実態を知りそこから学ぶための強制報告と自主報告による報告制度の確立(3)安全のための業務標準と安全目標の設定(4)医療機関における安全システムとしての患者安全プログラムの導入」や,その「患者安全プログラム」の原則として提言された「原則1:リーダーシップの構築」「原則2:人間が持つ限界に配慮したシステム設計」「原則3:有効なチーム機能の強化」「原則4:不測の事態に備える」「原則5:学習を支援する環境」は,その後の医療安全の基本的なアプローチとなった。

 米国は直ちに米国医療研究品質局(AHRQ)に医療安全を専門とする部門を設置し,エビデンスのある方策の探索に乗り出した。WHOも「World Alliance for Patient Safety」を発足させ,方策の啓蒙を開始した。有害事象の発生頻度の調査など,研究にも資源が投じられるようになり,医療安全に関する研究や新しい視点での取り組みが各国で進むことになった。人間工学や認知心理学などの学問領域や,他の産業界,特に高信頼性組織(HRO)の研究などで明らかにされてきた安全やエラー,またそれらの管理に関する科学的な知見が医療安全に応用され,安全をシステムで担保するべく,システムの設計やマニュアル・ルールの策定,また労働環境の検討もされるようになった。事故の分析手法も活用されるようになった。近年は「レジリエンス」「複雑系」といった視点も紹介されている。「エラーの種類と対策」「ヒューマンエラー」「報告制度」「システムアプローチ」「チーム医療」「コミュニケーション」「ノンテクニカルスキル」「分析手法」「患者・家族との協働」「安全文化」などは,いまや医療安全に関する必須の知識とされ,WHOが卒前教育のプログラムとしてまとめた「WHO患者安全カリキュラムガイド(2011年)」にも取り上げられている。

 我が国においては,1999年に大学病院や地域の基幹病院で医療事故が報じられたことを契機に,医療安全管理体制の整備など,国を挙げての取り組みが進められている。管理や組織のあり方を見直すことになる医療安全をクオリティマネジメント(質管理)に展開していこうとする医療機関も出てきている。

 なお,欧米,特に米国における「ヘルスケアリスクマネジメント」は,医療過誤に代表される様々なリスクを対象に,「Patient Safety」のみならず「クレームスマネジメント(紛争・訴訟対応)」「リスクファイナンス(保険を含む財務対応)」も対象とする管理手法である。また,クライシスマネジメント(危機管理)は,事故発生時のような危機的な状況に特化した管理手法である。ヘルスケアリスクマネジメントはPatient Safetyの同義語ではないこと,Patient Safetyはクオリティマネジメント(質管理)に連携するものであるとされていること,そのうえで,ヘルスケアリスクマネジメントも危機管理も組織に不可欠な取り組みであるとことを整理しておく必要がある。

 (注意)医療安全に関する用語については,いまなお決定的な定義があるわけではなく,英語圏と我が国で,また組織で定義が異なる場合があるので注意が必要である。英語圏で一般的に用いられている「Patient Safety(患者安全)」は「医療安全」の訳語として一致するものではないが,本稿では概ね同じ意味で使われている用語として用いた。

【関連用語】

患者安全,医療事故,医療過誤,リスクマネジメント,クライシスマネジメント(危機管理),クオリティマネジメント(質管理),リスクファイナンス,保険(以下は不記載:過失,セイフティマネジメント)